ウォッチング IN 別府

特別寄稿 : 海外は九州@愛媛の森 (写真撮影 : ものぐさ)





 ものぐささんの計らいで、初投稿します。よろしく。

 別府詣ではバイクです。別府は、日本で一番好きな町です。約18年間、通わなかった月はありません。ウォーキングの手伝いもさせて戴いております。皆さんのネットを拝見しますと、「ええー」っと、ぶったまげる膨大な温泉情報。別府だけでも知らない温泉がずらり。コメントも地元の情報誌よりずうっと上。本なんか買うのは馬鹿らしくなります。つわもののツブ揃いで何から書いたらよいのか、悩んでいましたが、たった一つだけ接点を見つけることができました。それは、「将来は別府に住みたい」とか「次は別府で盛り上がりましょう」とかの記載を、度々目にしたことです。この上なくタイムリーで、この上なく親近感を感じさせるこの響き、別府という町は改めて本物が分かる人を惹きつける力を持っているのだという実感が沸いてきたところです。

 竹瓦のウォークが終わってから短い時間でしたが、地元のYさんに同行を願って、ものぐささんを案内させていただきました。彼女は温泉だけでなく、別府の町並みについても関心が高く、地元の新聞記者Oさんや写真家のFさんとも深く親交されていますので(※)、途中で「もういいわ」と、お帰りになったらどうしようかと、どぎまぎした時間が最後まで続きました。やっぱり本物の数々、辿り着いたら暖かく僕たちを迎えてくださいました。Yさんも別府で育った想い出を語っていただき、今までにない得がたい経験をさせて戴き、感謝しております。

(※ものぐさ注:森さんと彼らのような深い親交は、私にはありません。面識を得ている程度です。)





刻の湯「喜久泉」
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 まず、「野上本館」へ一直線。裏泉家に加えて欲しい「刻の湯」です。当日はバラ湯になっていて良い香りが漂っていましたが、中年の腹の出たおっさんが湯に浸かったため、忽ちオーバーフロー。せっかくの花びらが、排湯口にドバーと流れ落ちて、形も香りも台無しにしてしまいました。

 別府では一番の繁華街にあって、こんなに美しいタイル画と数々の意匠、優雅と気品に溢れています。設計にあたられたF氏のセンスの良いこと。今、改めて敬服の一念です。花柄のタイルなど、原材料の調達も決して容易ではなかったことでしょう。

 別府は、町のど真ん中でも、少し歩けば、すぐに温泉にぶちあたる町です。しかも廉価な入浴料金。こんな町は、全国に他にあるでしょうか。そして、いつのまにかお友達が出来ています。他の町では考えられないことが、別府では当たり前なのです。






 お世辞にでも美しいとは言えない竹瓦温泉の周辺ですが、鶴田家の鏝絵や波止場神社にも立ち寄ってみたいものです。


鶴田家住宅
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 鶴田家は、東九州でもトップクラスの網元でした。その頃の北浜はイリコの干し場で、鶴田家が一軒だけあったそうです。別府の飛躍を確信して佐伯からやって来られたそうですが、別府の発展と共に、旅館業に転進しています。駅前通りも殆ど鶴田家の所有だったとか。道路のために土地を寄進して町の発展の原動力になっています。家の繁栄と地域の発展の願いが込められた鏝絵は、ビール会社からも使用の許可願いがきているとか…。

 鏝絵を知りたい方は、藤田洋三 著「消えゆく左官職人の技 鏝絵」(小学館)を買って下さい。大分県には、安心院・日出・山香を中心に約700もの鏝絵が残存しています。湯巡りと共に鏝絵巡りもいかがなものでしょうか。アートは、美術館だけにあるのではありません。喧騒とした町のど真ん中、多分知らずに往来した人もたくさんいることでしょう。 あれ一つ造ってもらうのに、いくらくらい掛かるのだろうかなどと計算される方もおられますが、当時は、建て主に対して仕事をさせて戴いたというお礼の意味が込められているのだそうです。現代人には考えられない世界があったのです。昭和になってから、戦争へ突入し統制経済になり、戦後はアメリカ文化が普及してしまって、建物の世界も様相は一変してしまいました。 職人さんもいなくなってしまいました。逆に言えば、大正末期から昭和初期は、建物のピークの時代だったと言えるのです。 別府が発展していた頃と一致しています。




波止場神社
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 波止場神社は、明治になって、別府港の波止場工事の無事と内航航路の安全を祈願して建てられた神社です。初代県知事・松方正義の木彫りの額が掛かっています。 港の完成によって、関西や四国方面から多くの観光客が押し寄せてくるようになりました。町の重心は、浜脇から別府へ移り始めました。 格天井には、花鳥十二支が描かれています。

 近隣は風俗のメッカ。竹瓦温泉に寄り添うように林立していますが、景観への配慮が足りません。自由とはこういうことを指すのでしょうか。 こんなことを書いているから、何回お店の前を歩いても声さえも掛からなくなってしまったのでしょうが。まだ現役ですよ、僕は。 この辺りの湯も、裏泉家に入れたら良いという意見がありますが、もしそうなったら、僕がボーズリでゴシゴシと背中をこすって差し上げましょう。






田の湯温泉にて
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 別府駅の西口は、田の湯です。辺り一面は生姜畑だったそうです。遠来からの客でごった返していたと聞きます。田んぼのあぜ道が通っていたので、あぜなしの湯とか呼ばれていたそうです。


田の湯館
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 日豊本線を手掛けた松永氏の別荘は、洋風の木造三階建て。約10年で手放され、現在は、民宿・田の湯館となっています。 別府駅から至近距離、しかも、九州で名を馳せている松永安佐衛門の親族が建てた別荘、値段も超格安。一度は泊まって、ゆっくりと家の隅々まで見学してみて下さい。 外装は一部変更されていますが、玄関や廊下、客室は当時のままです。浴室は、かつては二階がビリヤードでしたが、取っ払われて天井が高くなっています。 高層ビルがない時代、別府湾や四国も見えてたそうです。工事もそっちのけで山と海に囲まれた別府の美しい自然に見惚れていたのでしょうか。 なお、別府には木造五階建ての旅館もあったとか…。


旧 別府市公会堂
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 近くの旧別府市公会堂も覘いて戴きたいものです。ものぐささんのホームページで、最初に飛び込んできたのは、 マンホール岡本太郎の壁画中央公民館でした。 こんなものまで掲示して、この方は一体何者なのか、わからなくなっていました。湯とグルメの快適さの追求で終わっていない。町に対するやさしい気持ち。 これらを通して人柄や心の深さに触れることができて、本物とは何かということを考えさせられたものです。






「いま勢」の鰻
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 腹が減ってきたので、ラーメンかうなぎを選択してもらいました。「うなぎ」と即答が返ってきました。

 かつて、柳川の「御花」で戴いたうなぎ。天井の高い殿様の座敷で最高の気分で味わいました。ここ、「いま勢」の味も何回戴いても飽きません。 やたらと折込チラシの多い昨今、正月から仕事仕事と追いまくられるご時世ですが、営業時間も限られていて必要以上の商売はしていません。 土用の丑の日は、うなぎの供養でお店はおやすみとか…。

 昭和2年創業の老舗です。かつては流川通りにありました。 虎徹、友永パン、胡月、某ラーメン店など古くから細々と営業しているお店は、金額以上の跳ね返りがあります。 長い間待って、順番が来た時の嬉しさはひとしおです。待つ時間が長くなればなるほど感謝の度は増してきます。






中山別荘 正門
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 いま勢の道路を隔てた隣は、「中山別荘」です。敷地面積四千三百坪。別府では、大正末期から続々と別荘が建てられています。 「東の熱海、西の別府」と言われています。日本の勝ち組がこぞってやってきました。建設したのは、和田豊治。富士紡績の初代社長。 建設に当たったのはアメリカ屋。現在は中山製鋼所の子会社・関西興業が所有しているとか。和田氏は、中津市出身。 倒産寸前の大企業を建て直し、生前は第二の渋沢栄一と呼ばれた実業界の元老です。 常に国を愛し、郷土を愛し、友を持つなら和田を持てと、多くの人から親しまれた人です。大正9年、母のために建てた別荘で、致楽荘と呼ばれていました。(村松幸彦氏・記) 占領下のアメリカ軍による統治時代は、進駐軍の指令長官用に接収されていました。

 塀が高くて、立入も出来ないので、ビーコンタワーへ上がりました






ビーコンプラザ
グローバルタワー
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 ビーコンは、由布院の駅舎・由布院美術館と同じく、大分市出身の建築家・磯崎新の作品です。 ビーコンの「B」は、別府、ビューティ、ビッグを表しています。コンは、コンベンション。 タワーは、別府公園の中心地・海抜ゼロメートルの地点を中心とした巨大な仮想の球の一部をなしており、空間としての一体感を表現しています。

 眼下に中山別荘が見えてきましたが、管理が行き届かず、荒廃している様子でした。 そして、紅紫迎賓館と呼ばれた昭和初期の別荘は、不動産業者により解体が進んでいました。麻生家の財産だと思っていましたが…。 80もの会社を持っている麻生グループ。日本でも有数の大金持ち。大臣やなんか辞めて、ご先祖様の遺産を大切に守ってもらいたいものです。 このように、日本の近代を語ってくれる貴重な財産が解体の危機に瀕しています。そういえば、「べっぷ虎屋」も塀の一部だけを残してなくなってしまいました。 誰もストップをかけれずに、次々と姿を消していきます。

 そして、別府公園。かつて、米軍のキャンプ地だったとか。松の木は射撃の標的になり、沢山の弾が木の中に刺さっています。 そのために製材が出来ないので、残ったと言われています。ところで、何本あるのでしょうか。700本ですよ。広さは東京ドームが約10個分もあるそうです。 別府駅に近いこの一等地、指月と言われる市民運動がなかったら、住宅地となっていたかもしれません。 ちなみに同郷の友達と訪れたとき、一緒に公園を歩いてみないかと誘ったら、すかさず「おまいと歩くような場所ではない」と一喝されました。 じゃあ、風呂はどうなんだよー。飯はどうなんだよー。






野口病院
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 続いて、野口病院へ足を延ばしました。甲状腺やバセドー病では、日本でも有数の病院です。 創設したのは、北九州・若松の佐藤慶太郎氏。石炭商で財を成した大富豪です。 北九州の公立病院で胃の手術を受けたのがきっかけで、佐賀県出身・九州大学博士第一号の野口雄三郎を院長に招き、病院を設立しました。 自分の一生を診てくれる主治医として一緒に別府へ来たのです。病院の近くに自分の別荘を建てていました。

 佐藤氏は東京の美術館にも多額の寄付をしていますが、別府も遺言によって、多額の美術品を戴いております。 次々と発展していく別府にとって、なかったものは美術館でした。よその町の者が、よその町で稼いだお金を別府のために使ってくれています。 荘園町の開発をし、九州大学の温研を誘致した国武氏などもそうです。このような町が、全国他にあるでしょうか。

 建物は、木造のハーフティンバー様式。スタッコ壁と洗い出しによる仕上げは大正末期の建築です。 門司港にある三井倶楽部とどことなく似通っています。 病院の新築工事を始めた時、解体の危機に瀕していましたが、院長のご理解により修復され保存されることになりました。 現在は、病院の管理棟になっています。登録文化財に指定されています。

 10月6日は登録めぐりをしたいものです。






別府石の石垣
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 続いて、野口病院の周辺を散策しました。

 この辺り一帯は、別府石に囲まれた静かな住宅街です。この別府石。色は何種類あるのかなあ。 一個一個はただの石ころみたいだけど、塀に使われたら、超個性的な町並みになっています。 別府石は、今から約1,200年前に鶴見岳の噴火によって出来た石だと言われています。別府公園を掘ればいくらでも出てくるそうです。 四国にも別府石が使われたお家があります。四国でも、別府に土地や家を持つのが一つのステイタスだったそうで、当時の分限者はこぞって別府を目指しています。

 塀と共に、庭の手入れも行き届いていて、町を歩くのが愉しくなってきます。 全国には町並みの保存地区がたくさんありますが、別府もその一つかと思っていました。 この地区は、大正時代に麻生家が広大な土地を売却し、分譲したと聞いています。旧別府市公会堂や京都大学の地熱研究所も麻生家の土地だったとか…。

 飯塚市の麻生邸や伊藤邸も、そのうち訪ねてみたいものです。石炭が花形だった頃、どんな世の中だったのか思いを張り巡らしています。 愛する白蓮のために建てた赤銅御殿、地域の子供たちのための将来を見越して建てられた明治専門学校…形は違えど、手にした莫大な金の行方は…??? そして、それらを取り巻く人間模様。日本の近代化が始まった頃の物語です。約一世紀を経過した今、どう捉えたらよいのでしょうか。



山崎家住宅
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 山崎家の住宅です。重厚な造りで、雲竜の鏝絵が付けられていました。 雲や竜は水にまつわるもので、火事を嫌っています。建築当時は火事が一番怖かった時代だったのでしょう。

 満州で材木商をしていた人の別荘だそうですが、この他にも、よそで財を成した者がこぞって集まっているのです。 このような町って他にあるでしょうか。各地からやって来た人たち。生まれも育ちも違うのに、こうして調和の取れた美しい町並みが生み出されています。 自由といえども統一性がある、別府の全国に誇るべき町並みです。この素晴らしい景観が、更に、亀川にも息づいていたというのが、もう一つの驚きでした。 川越や内子などと比較しても、全く見劣りしない別府の町並み。物語も温泉も豊富にあるのに、町の魅力はだんだんなくなっています。

【参考】山水苑(麻生)、豊泉荘(安川)、つるみ荘(貝島)、赤銅御殿(伊藤・白蓮)、新日鉄(佐々木)、神和苑(古谷)、ゆのか など、 別荘が企業の保養所や旅館に転進したり、解体し細切れに住宅地に分譲したり、転売されたり、様々な形で栄枯盛衰の波をどっぷり浴びているのが、 別府のもう一つの顔と言えます。近代化と言われるこの百年、近代とは一体何だったのでしょうか。






八幡朝見神社 拝殿
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 朝市の賑わいを見せる八幡朝見神社。 楼門に代わる夫婦杉の間を通った二人は結ばれるとか、杯と瓢箪の石を踏んでお参りすると縁起が良いとか言い伝えがあります。

 この参道の石畳は、江戸時代の造り酒屋の荒金家が神社の湧き水を醸造用に引いたお礼に、寄進したと言われています。 油屋熊八が株で大儲けをしたと聞いていますが、荒金家にとってはいかばかりのものだったのでしょうか。 坂本長平商店や児童館一帯は荒金家の豪邸が建っていたということです。

 萬太郎清水って、水を汲みにたくさんの人が訪れています。不治の病に効能があるとか。 町の中に名水が湧くとは露知らず、飲用の温泉が湧いているのだと勘違いしていました。 どこを掘っても出てくると言われている別府の温泉、熱めの温泉ばかりで水が無かったら、やっぱり困っちゃいますよねえ。

 この境内の片隅には、茶房萬太郎が佇んでいます。お神輿を収納していた蔵だそうですが、解体されずに改装されました。 不老長寿の名水で点てたコーヒーを味わってみたかったのですが、限られた時間。急いで量水室を通って、浄水場へ。






朝見浄水場 集合井室
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 続いて、朝見浄水場。登録有形文化財に登録されていますが、別府にはいくつあるでしょうか。 やはり、熱い温泉だけでは生活は出来ないし、湯治客だって熱いお湯だけでは満足は出来ないはずです。

 別府の市街地が見渡せる広々とした高台にあって、集合井室のドームは、周囲の緑に溶け込んでいます。 水は地下水ではなく、隣の庄内町からの引き水だとか。人間が造ったものって、普通は景観を台無しにするものですが…。






山家區近道
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 国道に降りてすぐ、浜脇の入口に日豊本線の下に山家(やまが)への近道があります。 レンガ積みのアーチになっています。崩れはしないかと心配してしまうのですが、積み方はイギリス積みでした。 明治の初頭がフランス積みだと教授戴いているので、明治後期の完成だと思います。浜脇停車場が明治44年開業だからピッタリ合います。

 この日豊本線の開通は、別府にとっては大きく飛躍を遂げる絶好の機会だったと言われています。






平尾邸(写真左は森氏)
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 この後、浜脇に入り、洋館・平尾邸と旧小百合愛児園を外から眺めました。

 浜脇は別府温泉の発祥の地と言われています。ここを案内するのにはまだまだ勉強不足。 浜脇を理解するのには、相当の労力が必要なのです。

 とりあえず、もっと知りたい方は、村松幸彦先生の 別府ふるさとガイド を読んで下さい。






 よそ者であり、熟知している訳ではないけど、こんな案内の経験をさせて頂いて、ものぐささんには感謝しています。 あっという間にタイム・リミットになってしまいました。まだまだ、お見せしたい場所がたくさん残っています。



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