【博多情緒めぐり2006】 ガイドと街歩き
発祥の地 寺社めぐりコース その2

→ その1から、つづく



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聖福寺 (しょうふくじ)


なんと日本最古の禅寺も、博多にあるのだ!!
禅宗の伽藍型式がよく保存されており、境内全域が国史跡に指定されている。


(ガイドマップより転載)

栄西禅師が開かれた日本最古の禅寺で後鳥羽上皇親筆の「扶桑最初禅窟」という勅額が残っている。また、お茶の伝来の地でもある。お茶の栽培に適している背振の地に植えられた「岩上茶」は当時珍重され、今日の「宇治茶」の元といわれている。
菊の御紋の入った「勅使門」。
今年9月の秋篠宮さま来福の際も、この門から寺内に入られたそうである。

脇には「勅願所 扶桑最初禅窟」(扶桑=日本)」の文字。
勅使門 境内には、お茶の木も
たくさん植えられている
勅使門と総門を結ぶ前の通りは、現在「御供所通り」と呼ばれている。昔は、これが博多のメインストリートであり、今の「大博通り」に相当する道だったそうだ。

ちなみに、博多祇園山笠の追い山コース。通りの幅が狭いので、山見物には迫力があって良いところ。
御供所通り(ごくしょどおり) 「博多べい」が残っている
歴史上、聖福寺造営の遣明船が派遺されるなどしており、聖福寺は対外交渉にも関わっている。博多綱首たちは、ここを信仰施設として利用するとともに、貿易の活動拠点としても利用していたわけだ。

博多浜の広大な部分を占めた聖福寺は、鎌倉時代の国際貿易都市博多形成の原点となったといっても過言ではないそうだ。
鐘楼
山門には、後鳥羽上皇が下賜された「抹桑最初禅窟」の勅額が掲げられており、日本最初の禅寺であることが分かる。幾度かの戦火にあっても、この勅額だけは、何故か不思議なことに一度も焼けていないとか。
福岡県西方沖地震等の影響もあり
痛みが激しく、現在、修復工事中
(2006年8月20日 撮影)
楼上の「扶桑最初禅窟」の勅額が、わかるだろうか
仏殿では、平成26年開山栄西禅師800年大遠諱法要にあわせ、「丈六の三世佛」の建立がすすめられている。 聖福寺の開基(つまりスポンサー)は源頼朝とされており、源氏の紋である笹竜胆(ささりんどう)が使われている。
仏殿(大雄寳殿) 唐門

塔頭38を持ち、九州臨済宗第一だった大寺も、数度の兵火や太閤町割りなどにより、現在の境内は最盛期の四分の一に縮小されてしまっている。



妙楽寺 (みょうらくじ)


正和5年(1316)創建時は、博多北浜(古門戸町対馬小路)にあった。このあたりは元寇堀があり、海から眺めると石のお城のように見えたので「石城山」と付けられたとか。元寇の余波おさまらず、元寇堀を張りめぐらしていた当時の博多は「石城府」と言われていた。寺の境内は八丁四方と広大なもので、中国を真似て建てられた立派なものだったそうだ。大陸との交易交流で賑わったが、天正14年(1586)兵火にかかり伽藍全焼。長い間小屋がけで過ごし、江戸時代の初め、黒田藩に移って御供所町のこの地に移され中興。


(ガイドマップより転載)
「ういろう」伝来の地。鎌倉後期に、薬として伝えたのが始まり。同時に、羮を作り提供すると、とても評判になり、名前も同じ「ういろう」として伝わっていった。対外交渉の拠点の時期もあり、神屋宗湛、伊藤小左衛門など博多豪商の墓があることでも有名。
イチョウとサクラの紅葉は
もう少し先だな
ちょうどお茶会の開催中だった
花園天皇の皇子である無我禅師(3世)が、寺の西南隅である海の先端に創らせた「呑碧楼」という楼閣の景勝はすばらしく、その名は遠く元や明国にまで知れ渡ったそうだ。

現在の本堂の額にも「呑碧」の文字が見える。

本堂でお茶会が開催されていたこの日、ウォークではお庭まで入れさせてもらったが、このお寺も、通常は拝観不可。ムラサキシキブの紫色の実が、綺麗だった。
本堂
寺内にある月照庵の開基は、陳延祐。無方和尚(4世)を頼って来博し、帰化した人物で、医者である。この人が「透頂香(とうちんこう)」という万能薬をつくり、時の将軍足利義満に献上して喜ばれる。その秘伝を子孫が受け継ぎ、先祖の官名をとり「外郎(ういろう)」と称して、小田原から売り出した。

ところが「透頂香」の薬は大変苦いため、口直しに米粉で作った菓子を添えていた。これが、いつしか「ういろう」と呼ばれるようになったとか。つまり、「ういろう」とは、もともと薬の名前だったというわけだ。
月照庵の入り口にある
「ういろう伝来之地」の碑
この寺には、博多旧家や商家の墓が多くある。

神屋宗湛は、博多商人三傑の一人に挙げられる豪商である。貿易に従事して家産を興し、豊臣秀吉の知遇を得て、戦火によって荒廃していた博多の町を復興し、博多の町割にも貢献した人。

檀家制度が無かった江戸時代以前は、幕府直轄の大きな寺院は、幕府から貰った領地を元に寺を経営していたという。「妙楽寺貿易」という言葉が残っているように、妙楽寺の住職が国の正使として渡航することも多々あったそうだ。そうした正使が商人をたくさん連れて行って貿易を行い、その利益で寺の修復や運営をしていた。
神屋宗湛の墓
たいそう立派な墓碑である
2代目小左衛門は「銀七千貫以上の資産を持つ豪商」と噂された桁外れの資産家だったが、鎖国の禁を破り、朝鮮との武器密輸を行ったことが発覚し、寛文7年(1667)長崎ではりつけの刑に処せられた。博多でも一族・取引関係者等43人死刑という、鎖国期最大の抜船(ぬけふね)事件である。ただし、密貿易といっても黒田藩の財政を助けた貿易だったとか。処刑された一族の墓の最奥部にある小左衛門の墓は、まことに小さなもの。
伊藤小左衛門一家の墓
開山堂の奥にある
開山堂


承天寺 (じょうてんじ)


博多祇園山笠、博多織、うどん、蕎麦、年越し蕎麦、饅頭、羊羹 … この地から、随分多くのものが発祥していることに、あらためて驚いた!!

仁治3年(1242)、博多で活躍した宋の貿易商の謝国明が、宋で禅宗を学び帰国した聖一国師を助けて建立した寺。博多の禅宗の礎となった寺院のひとつであり、勅許により官寺とされ、西海の巨利として栄えた歴史を持つ。最盛期には塔頭43寺を有したという。謝国明は後に日本に帰化、「謝太郎国明(くにあき)」と名乗る。


(ガイドマップより転載)

「年越しそば」など発祥に縁のある地。大晦日に町人にそばを振舞うと、翌年の景気がよくなったことから「運そば」といわれていた。また、聖一国師が宋から持ち帰った「水磨様」と呼ばれる製粉技術を記す設計図により、「うどん」「饅頭」「抹茶」などの紛食文化が広まった。
聖一国師が帰国した仁治2年(1241)、博多の町に疫病が流行した。国師は施餓鬼棚に乗って町人に棒で担がせ、博多の町中に甘露水を振りまき、疫病退散を祈祷して回ったのが博多祇園山笠の起源とされる。

現在の山笠でも、承天寺の前に清道旗が設けられ、山がそこを回る際、一礼される。
この寺にも、菊の紋入りの
「勅使門」がある
「山笠発祥之地」の碑
記念撮影スポットかも!?

元寇の戦いの時、元軍の船が碇(いかり)として使用していたといわれるもの。
蒙古碇石 庫裏
饂飩(うどん)、蕎麦(そば)、羊羹、饅頭の製法は、聖一国師が初めて日本に伝えたもの。

満田弥三右衛門は、聖一国師とともに宋へ入り、織物技術を学んで博多織の始祖となった人物。
左:饂飩蕎麦発祥之地
右:満田弥三右衛門之碑
「饂飩蕎麦発祥之地」
今回のウォークで、私がもっとも感激したひとつが、「洗濤庭」を間近から見せてもらったこと。方丈の前に広がる美しい石庭である。「博多にはお庭の綺麗なお寺は少ないですが、ここのお庭は綺麗ですね。」とガイドさん。

承天寺も、内部は拝観謝絶。一般者は、通常、ここまで立ち入ることは出来ない。


出来町公園


この公園は、明治22年(1889)に開業した博多駅があった場所だそうで、「九州鉄道発祥の地」の記念碑が置かれている。

現在の博多駅は、昭和38年(1963)に移転したもの。
旧博多駅があった場所である出来町公園から
約600m離れたところに、現在の博多駅がある
「九州鉄道発祥の地」記念碑


五十二萬石 如水庵


如水庵ホームページ

如水庵は、天正15年(1587)創業の和菓子の老舗。

ウォークの最後は、如水庵本店にてお茶を出してもらい、アンケートを記入して、解散となった。



栄西の登場で始まる中世の博多。当時、対外貿易の重要な役割を果たしていたのは禅寺や禅僧たち。室町時代以降になると、国際貿易の担い手は、禅寺の僧侶や商人僧(寺社に帰属し僧侶の体をとりながら、実体は貿易商人)へと移っていく。戦国時代の博多は、堺と共に日本を代表する国際貿易都市であり、自治都市であった。

幾度もの戦火に焼かれた博多の町のお寺は、建物自体は古いものは多くは残っていないそうだ。しかし、ゆかりの寺をめぐる中で、日本最古の国際貿易都市のひとつとして知られる博多と それらの寺院との関係の深さを思い知らされた。

豪快で あけっぴろげ、自由闊達と言われる“博多っこ”の気風は、そんなダイナミックな歴史の中で育まれ、現代まで継承されてきた精神かもしれない。




温泉めぐりモノグサ写真日記@九州  福岡県  2006年11月一覧


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