【博多情緒めぐり2006】 ガイドと街歩き
太閤町割り・商いコース その2

→ その1から、つづく



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唐津街道 ・ 蔵本番(くらもとばん)


太閤秀吉の朝鮮出兵の折、北九州と唐津を結ぶ唐津街道は非常に頻繁に使われた道だそうだが、その付近一帯は、現在も問屋が多いエリア。この問屋街も、実は秀吉時代の名残だったのだ!

博多の港を すぐそばに控えていたこの場所は、朝鮮出陣に際し、兵糧の米倉が置かれた“兵站本部”であった。旧町名「蔵本町」は、その倉庫=蔵に由来するもの。中世には、堺とならぶ自由都市として発展した博多。「反政府」「反権力」の気概が博多商人たちの凄さであり、その気風は、やがて川上音二郎の具現を見るとのガイドさんのお話。
かつての唐津街道 太閤秀吉も
この道を通り名護屋へ向かった

「番」とは、昔、役人や倉があった町内を、○○町といわずに通称で○○番と呼ぶ習慣があったそうである。

現在も、西鉄バス停留所名に「蔵本町」が使われている。
昭和通り 中央分離帯の植え込みに「旧蔵本番」の碑がある


石塁遺構展示室


たびたびニュースなどで取り上げられる博多小学校だが、私は、その建物を実際に見るのは初めて。大変モダンで驚いた。この校舎で学べる児童は、うらやましいものだ。


博多小学校は、旧博多部の、大浜・奈良屋・御供所・冷泉の四小学校が統合し、1998年4月に開校した小学校。幼稚園、公民館、石塁遺構展示室も併設され、地域に開放された場を提供している。ガイドさんら博多部の人たちにとっては“象徴”的な意味合いを持つ場なのだそうである。

この地区には、代々住み続けている人が多く、親子代々同じ小学校の卒業生という家庭も多いそうだ。従って、他地域に比べると、児童数も多いらしい。博多祇園山笠の期間中は、公然と早退が認められるとか。
博多小学校
神屋宗湛の屋敷跡である
博多小学校の地下に「石塁遺構展示室」があり、無料公開されている。「元寇防塁」の可能性のある石塁の露出公開の他、出土遺物も展示してある。

「元寇防塁」は、鎌倉幕府が、元の襲来に備えて、博多湾に沿った約20kmの海岸に造らせた石塁。

国史跡に指定されている西新の元寇防塁などは私も見ているけれども、こんなところに、こんな展示室があったのは、これまた知らなかった!!
石塁遺構展示室 入り口 説明パネル
平成13年(2001)、NHK大河ドラマ「北条時宗」では、北大路欣也が演じる謝国明が登場した。
地下の展示室の様子 「元寇が原因の一つとなり
鎌倉幕府は滅亡します。」


豊国神社(神屋宗湛屋敷跡)


さすがに私でも「太閤町割」は知っていたが、こんなところに豊国神社があるとは!うーん、知らなかった。


(ガイドマップより転載)

戦乱で廃墟と化した博多再興の大恩人である豊臣秀吉を祀った神社。再興を熱望した博多町人側代表の豪商神屋宗湛の屋敷跡に建てられた。太閤町割で実際に使われた6尺6寸の間杖が神体とされていたが、戦災で焼失し、現在は櫛田神社にレプリカが展示されている。
豊国神社 旧 奈良屋番の石碑

神屋宗湛(1553〜1635)は、島井宗室、大賀宗白と共に、博多商人三傑(さんけつ)と言われる人物。大阪城茶会で秀吉に「筑紫ノ坊主」と呼ばれ、千利休とも茶席を共にする茶人でもあった。九州平定のため箱崎に在陣中の豊臣秀吉に願い出て、島井宗室らと共に、焦土と化した博多の町の復興に尽力。彼が屋敷内に秀吉の霊を祀り、その恩に報いたのが、この豊国神社だそうである。

今も「太閤さん」として親しまれる秀吉は、当時も絶大な人気を誇り、各地に豊国神社がつくられたそうだ。しかし、その人気ぶりを恐れた徳川幕府は、豊臣家滅亡後にほとんどを取り潰してしまったとか。異例的に博多に残っている豊国神社は、神屋宗湛という個人の敷地内にあったため、取り潰しを免れたものらしい。



大同庵跡(だいどうあんあと) ・ 古渓水(こけいすい)


(ガイドマップより転載)

秀吉が千利休に切腹を命じた事件にからみ、京都の大徳寺を追放になった古渓和尚を迎え入れるために博多の豪商神屋宗湛、島井宗室らが造った住居跡。3年後、古渓和尚が大徳寺に帰山する時に、恩返しに井戸を掘り、その水が古渓水として火難除けで珍重された。
古渓のお堂は、昭和20年6月、福岡大空襲の猛火で焼失。
今は、駐車場の片隅に、パネルと石碑が ひっそりあるのみ。
京都大徳寺の古渓和尚(宗陳)は、豊臣秀吉や千利休と親しい間柄にあった。千利休が大徳寺に寄進した山門の楼上に自分の木造を安置、その山門をくぐった秀吉は激怒して、千利休に切腹を命じるとともに大徳寺の打ち壊しを命じた。古渓和尚は身を挺してこれを中止させたが流罪となり、筑前藩主・小早川隆景に身柄預けとなり、天正16年(1588)博多に流されてくる。このとき神屋宗湛、島井宗室ら博多の豪商たちは、大同庵という庵室を建てて、苦境にある古渓を温かく迎えた。

古渓はこの地で禅と茶に時を過ごした後、天正18年(1590)許されて京都に帰る。
古渓水
この大同庵は、かつて、この地にあった妙楽寺(現:御供所町)の境内にあったそうである。
古渓水は、汲んで持ち帰り、家の周囲にふりかけておくと火難をよけるといわれ、「火伏せの妙水」として広く信心を集めた。

戦後の町名変更により、由緒ある「古渓町」の町名も消えてしまい、今は旧町名を示す石碑があるのみ。
奥に、古渓和尚の像 「那珂川と石堂川に挟まれる
このエリアが“博多部”です。」
天正15年(1587)、豊臣秀吉は「太閤町割り」と言われる区画整理を行い、焦土と化した博多の町の復興をしている。

東は石堂川(御笠川)、西は那珂川を境に、市街は十町(約1km)四方、幹線道路を東西に3本、南北に4本走らせ、されに小路などで細分化。

博多祇園山笠で耳にする「流れ」という町組織も、この町割りがベースになっており、数度の変遷を経て、現在は7流れだそうである。
文化9年(1813)博多近隣古図
南北が逆になっている


情緒ある細い路地


昔の情緒の残る路地。
人が2人並んで歩くといっぱい、いっぱい。
こんな路地が、まだ残っているんだなー。

で、この路地を抜けて…


沖濱稲荷 (川上音二郎生誕碑)


(ガイドマップより転載)
明治の演劇界において「オッペケペ節」や「壮士芝居」で一世を風靡し、新派演劇の祖となった川上音二郎。芝居といえば歌舞伎しかなかった時代に、自由民権思想も反映した音二郎の新演劇は大評判となり、その名は欧米でも知られるほどだった。
沖濱稲荷神社 沖濱稲荷 社殿
「新派の祖」と呼ばれる川上音二郎は、元治元年(1864)1月1日、博多の商家の生まれ。14歳で上京。妻のマダム貞奴とともに演劇史上に大きな功績を残している。

実際の生誕地は、この碑があるところから、少し北だそうである。
境内の一隅にある
川上音二郎生誕碑
オッペケペーの歌
博多座は、このすぐ近く。

現在も、博多座で新派の公演があるときには、新派俳優さんたちは、ここにお参りするそうである。
こちらには、新派俳優の
手植えの木がある
花柳章太郎
手植えの木
水谷八重子
手植えの木


博多山笠用品専門店 山笠用品 ハンダ


山笠用品 ハンダ ホームページ

山笠用品だけを扱う専門店で、ここに来れば、一年中、山笠用品が揃うそうだ。
店内を見学させてもらう。とてもカラフルで、華やか。

ちなみに博多祇園山笠は基本的に女人禁制のお祭りだが、こちらは女性も入店可(笑)

このお店が入っている建物そのものも相当に年季が入っているのだが、ガイドさんに確認したところ、この辺は昭和20年の福岡大空襲で焼け野原にされたそうだから、建物は戦後のもの。
外観 「キューピーちゃんの誉」
山笠用品が所狭しと並べてある、にぎやかな店内


追山笠廻り止 (石村萬盛堂)


(ガイドマップより転載)
7月15日に追山でクライマックスを迎える博多祇園山笠の決勝点。昭和52年に、マシュマロデーを発案した隣接の石村萬盛堂は、オッペケペー節で有名な俳優川上音二郎の屋敷の一角を借受け創業した。家賃は音二郎の計らいで櫛田神社に納められていたという。
「廻り止(まわりどめ)」が、追い山笠のゴール。
スタートの櫛田神社から廻り止まで、5kmの道のり。
現在、水法被に締め込み姿で舁(か)かれる(=担がれる)山笠だが、これは文明開化で裸がダメと言われて以降のことだそうな。
石村萬盛堂の壁には
江戸時代の追い山の絵図
「江戸時代まで、裸で
山を舁いていました。」
店内には、博多の
古地図などの展示も
石村萬盛堂ホームページ

店内でお茶を頂きながらアンケートを記入し、解散となった。博多における太閤秀吉の存在の大きさを再認識しつつ、今回も、知らなかった歴史や見どころを たくさん教えてもらって、とても充実した楽しい時間だった。
石村萬盛堂 店内の様子 店内でお茶をご馳走に



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